小論文・コラム

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18/6/25
『旧皇族の現在 今こそ「旧皇族」の皇籍復帰を』
柳井 謙一

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大日本帝國陸軍中尉 山本政之
0002『日本正名運動@
国益研究会『中野』代表 東郷秀憲
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0004『フォアグラに見る矛盾』

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0005「タバコは二十歳になってから」の裏
国益研究会『中野』事務局長 沖田東一

0006『文天祥が生きた獄中環境と、文天祥『正気の詩』にも比すべき板垣征四郎の『自序』詩の詠吟と、私のシベリア抑留環境追憶の感慨
神州正気の会 亀谷治

0007『旧皇族の現在 今こそ「旧皇族」の皇籍復帰を
国益研究会『中野』姫路支部柳井謙一
0008『「いただきます」のこころ
国益研究会『中野』事務局長 沖田東一

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『 旧皇族の現在 今こそ「旧皇族」の皇籍復帰を 』

柳井謙一
国益研究会『中野』
姫路支部所属
創造文化研究所研究員

 秋篠宮妃紀子殿下のご懐妊により、小休止といった感のある皇室典範改正問題ですが、ここで議論を止めてしまっていいわけではありません。なぜなら、問題は何一つ解決していないからです。この秋誕生されるのが親王殿下だったとしても、一世代先送りするだけなのです。将来皇族はこの方お一人のみとなってしまう可能性もあり、もし秋篠宮家の若宮様にお子様が恵まれなかったとしたら、皇統断絶となるのです。
 真に安定した皇位継承を実現させ、皇統の永続を切望するならば、昭和二十二年GHQの圧力により皇籍離脱を余儀なくされた「旧皇族」の皇籍復帰以外の選択肢はありえません。
 皇籍離脱されたのは伏見宮家、山階宮家、賀陽宮家、久邇宮家、梨本宮家、朝香宮家、東久邇宮家、北白川宮家、竹田宮家、閑院宮家、東伏見宮家の十一家、人数にして五十一人。
 これら旧十一宮家の中で、現在(平成十八年四月末現在)まで男系で存続しているのは、伏見・賀陽・久邇・朝香・東久邇・北白川・竹田の七家。伏見・北白川の両家を除く五家には、現当主より下の世代にも男子がおられます。
 その中で二十代から四十代の男子は十四人。賀陽家には正憲氏一人、久邇家は朝尊氏・邦晴氏・朝俊氏の三人、朝香家は明彦氏一人、東久邇家は征彦氏・照彦氏・睦彦氏・盛彦氏の四人、竹田家は恒貴氏・恒昭氏・恒智氏・恒泰氏・恒俊氏の五人です。
 ちなみに独身でいらっしゃるのは、久邇邦晴氏・朝俊氏、東久邇睦彦氏、竹田家の五人の計八人です。また東久邇家においては、故盛厚王第二男子秀彦氏が旧伯爵家の壬生家に養子に入られ(現在のお名前は壬生基博)、二十代のご子息が二人いらっしゃいます。同じく第四男子の厚彦氏は母方の姓を名乗っており、この三名が東久邇家に復帰となれば、計十七名となります。
 さらにその下の世代を見ると、賀陽正憲氏には小学生が二人、東久邇照彦氏には二歳の男の子の計三人がいらっしゃいます。
 しかし旧皇族の皇籍復帰に対して、女系を認め皇統の断絶を企む勢力は、様々な詭弁を弄し反対の意を表しています。「国民の理解が得られない」、「旧皇族は全て伏見宮第二十代の邦家親王を共通の祖としており、皇室と余りにも血が離れすぎている」、「皇室を離れ既に六十年もたっている」などです。
 世論調査を見ると、当初女系天皇容認が約八割もあったのに、現在では六割程度まで下がっています。時間が経つとともに女系容認派の割合は確実に減ってきているのです。血筋にしても、確かに男系では約四十親等離れていますが、神武天皇から見れば等しく皇胤という点に置いてなんら問題はありません。それに女系を介してみれば非常に近い関係にあります。朝香・東久邇・竹田の三家には明治天皇の皇女が、さらに東久邇家には昭和天皇の第一皇女成子内親王が嫁がれています。久邇家は香淳皇后のご実家ですし、賀陽家の場合は貞明皇后の姪が妃殿下となられています。自らは女系継承を主張するのに、とんだダブルスタンダードぶりです。それになにより、天皇陛下を始め皇族方と旧皇族のみなさまは「菊栄親睦会」という団体を通じ、今に至る親戚づきあいを続けていらっしゃいます。皇籍を離れたのも、占領中に強制されたものであり、憲法同様なんら正当性は認められません。
 また旧皇族の中には、社会的に非常に重要な地位につかれている方が数多く見受けられます。先日の黒田慶樹・清子ご夫妻の結婚式の斉主を務められた伊勢神宮大宮司の北白川道久氏、女系天皇に反対の意思表明をした神社本庁の統理は久邇邦彦氏、日本オリンピック委員会会長の竹田恆和氏などの方々がそうです。
 また、旧皇族以外にも皇位継承有資格者を探すとするならば、まず明治以降爵位と家名を賜り、華族に列した方々の子孫が考えられます。こちらも旧皇族と同じくみなさん邦家親王の子孫で、十六家存在しました。多くの家においては後継者を欠くか、養子による相続が行われましたが、伏見宮家より分立した華頂侯宮家には四十代が三人、久邇宮家から分かれた東伏見・龍田の両伯爵家は、前者には二十代が二人、後者は二十代が一人と、少なくとも三家には後継者がいらっしゃいます。
 さらに、男系の血筋において旧皇族より近い方々を求めるとなると、皇別摂家の存在が挙げられます。しかし皇別摂家と聞いてもほとんどの方がご存知ないことでしょう。一部の系図愛好家にのみ知られる存在にすぎないのが実情です。
 江戸時代、後継者を欠いた摂家に養子に入れられた男子皇族がいらっしゃいました。後陽成天皇第四皇子・近衛信尋、同帝第九皇子・一条昭良、閑院宮直仁親王第三皇子(東山天皇皇孫で光格天皇叔父)の鷹司輔平のお三方がそうです。このお三方には相当数の男系の子孫がいらっしゃいます。
 近衛信尋の子孫をあげれば、近衛家分家(公家・男爵)、水谷川家(公家・男爵)、常磐井家(浄土真宗高田派専修寺・男爵)の三家、一条昭良の子孫には、醍醐家(公家・侯爵)、佐野家(佐賀藩士・伯爵)、南部家(大名家・伯爵 現当主利昭氏は現靖国神社大宮司)の三家が存続しています。鷹司輔平の子孫は、華園家(浄土真宗興正寺派興正寺・男爵)、梶野家(公家・男爵)、徳大寺家(公家・公爵)、高千穂家(英彦山天台修験座主・男爵)、徳寺家分家(公家・男爵)、中院家(公家・伯爵)、住友家(財閥家・男爵)、室町家(公家・伯爵)山本家(公家・子爵)、北河原家(公家・男爵)、千秋家(熱田神宮大宮司・男爵)の十一家があります。なお、水谷川家、佐野家、中院家には当主以降の世代に男子はいらっしゃいません。
 明治以降の臣籍降下組はともかく、皇別摂家のみなさんを皇族にというのは、非現実的でいくらなんでも無理があります。ですが、内親王・女王と結婚した場合に限り宮家創設を認めるなり、国家からの援助や特権は一切なく、立場はあくまで民間人のままで皇位継承権のみ付与するなど、考えられる案はあるはずです。
 このように、相当数にのぼる方々が天皇の男系の血筋を受け継いでいらっしゃいます。男系での継承が行き詰ることなどありえません。旧皇族の皇籍復帰を軸に、いまこそ真剣に皇位継承有資格者の拡充を図る方策を議論すべきです。何があろうとも皇統は男系によって継承されなければいけないのです。

(新聞「アイデンティティ」20号より転載)