小論文・コラム

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15/6/14
『フォアグラに見る矛盾』
沖田東一

バックナンバー

0001『 東京裁判史観から脱却しよう 』
大日本帝國陸軍中尉 山本政之
0002『日本正名運動@
国益研究会『中野』代表 東郷秀憲
0003『シロナガス鯨が増えない理由』
国益研究会『中野』事務局長 沖田東一
0004『フォアグラに見る矛盾』

国益研究会『中野』事務局長 沖田東一
0005『「タバコは二十歳になってから」の裏』
国益研究会『中野』事務局長 沖田東一
0006『文天祥が生きた獄中環境と、文天祥『正気の詩』にも比すべき板垣征四郎の『自序』詩の詠吟と、私のシベリア抑留環境追憶の感慨
神州正気の会 亀谷治

0007『旧皇族の現在 今こそ「旧皇族」の皇籍復帰を
国益研究会『中野』姫路支部柳井謙一
0008『「いただきます」のこころ
国益研究会『中野』事務局長 沖田東一

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 フォアグラに見る矛盾 』

沖田東一
国益研究会『中野』
事務局長

 現在、日本が調査捕鯨を続けていることについて、欧米を中心とした世界各国が日本を非難している。非難の理由を挙げると、その多くが「可哀想」という感情論で「日本の食文化は残酷だ」と攻撃しているようだ。
 だが、はたして非難している彼らの国の食文化が我々と比べ残酷でないのかというと、これが首を傾げざるを得ない。

 例えば、フランス― 捕鯨反対国の1国である ― の食文化を代表するものとして、「フォアグラ」が挙げられる。
 ご存知の方も多いと思うが、フォアグラとはガチョウを雛の頃から大量の餌を無理矢理食べさせて病的なまでに太らせることで、肥大化した肝臓(いわゆる脂肪肝)を食べるものである。考えてみれば、これ程残酷な話もない。
 他にも西洋では鳩やウサギなども調理してしまう。日本人の感覚では、こちらの方が「可哀想だ」と思えてしまうが、不思議な事にクジラ食にはヒステリックな彼らが、自国の食文化には何とも感じていない。

 こうした矛盾は、欧米人の文化的狭量さ ― 世界が自国と同じ文化で成り立っている、または同じ文化を持たない国は認めない ― という一種の偏見に原因があると思われる。
 欧米はキリスト教の文化圏だが、例えばキリスト教では「牛」「ウサギ」などは神が家畜として人間に与えたものとし、これを食べることは人間の権利だ、としている。また、欧州の(日本と比較して)厳しい自然環境も重なり、欧州では人間が食べるものは小麦でも肉でも人間が作るべきで、それをせず自然の物を食べるのは野蛮であるというのが考えにある。
 これを捕鯨に当てはめると、肉は牧畜によって育てるべきであり、自然を泳ぐ鯨を狩るのは、アフリカでキリンや象を射殺するのと同様、野蛮かつ残酷な行為ということになる。 つまり、欧米人の目には自分達の牧畜と日本の捕鯨は、全く異なる次元のものに見えていることになる。 

 無論これは彼らキリスト文化圏にのみ通じる理屈であり、それ以外の文化圏の人にはただの屁理屈でしかないであろう。実際、イスラム文化圏は牛を神の使いとしており、食用など言語道断である。また、江戸時代の獣食文化の無かった日本も、牛等の獣を食べることを「野蛮」としていた。
 しかし、上記のことで欧米人に牛肉食批判をしても、彼らは一笑に付すであろう。「文化が違う。我々の文化ではこれが普通だ」と。ここに彼らの傲慢さがあるが、彼らは気付こうともしない。