小論文・コラム

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19/7/7
『「いただきます」のこころ』
沖田 東一

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『 「いただきます」のこころ 』

沖田東一
国益研究会『中野』
大阪本部事務局長

 食事の前に手を合わせて言う「いただきます」という言葉。
 「いただきます」の意味は、「食事をいただきます」という、食事を作ってくれた人や作物を育てた人への感謝の言葉であると同時に、「あなたの命をいただきます」という、これから食べる食物に対しての感謝の意味がある。食卓のお魚やお米、野菜などの食材に「いただきます」と感謝する。日本独自の伝統の言葉である。
 アメリカや中国には、こういった習慣はない。キリスト教徒は食事の前に感謝のお祈りをするが、これは食物を与えてくれた神への感謝であり、日本の「いただきます」のような、いただく食物そのものへの感謝ではない。言うタイミングは同じでも、その意味や背景は全く違うのだ。

食物とは

 そもそも食物とは何か。食物も最初から食物だったわけではない。最初は魚であったり牛であったり植物であったり…すべて元は命ある生き物だったのだ。それら多くの命を、私達は生きるために食べている。自分が食べた命もまた、多くの命の上に成り立っている。無数の命の犠牲のもとで、私達は生きているのであり、菜食主義者やサプリメントの食事を摂っている人であっても、その罪に何ら変わりは無い。
 だからこそ、自分に命を与えてくれた生き物に対し、感謝しなければならない。その心の表れが、「いただきます」という言葉なのだ。

感謝の心を無くした日本

 近年はこうした食物への感謝の心が薄れてしまったように感じる。核家族化や夫婦共働きで家族がバラバラに食事をとることが増えたこと、冷凍食品やレトルト製品での食事が増えたこと、何より物質的に豊かになって飽食の時代になったことが理由だろう。そうして育った子供が成長して親になっても、自分が命への感謝の心を知らないのに子供に教えられるわけもなく、悪循環となっている。某ラジオ番組では「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」という親さえ出てきた。(この親は「金さえ払えば命を奪うことは許される」と考えているか、「いただきます」を学校に対して行なっているものと勘違いしているのだろう。無論、給食を作ってくれた人への感謝も必要であるが)。流石にこんな人は少ないだろうが、飽食の時代にあって、食事が自然の恵みであるという意識は、確実に薄くなっている。
 食事を作る側も同じである。例えば回転すし「くら寿司」ではレーンに並んで一定時間経過した寿司は全て処分されている。その方が効率はいいのだろうが、食物を捨てて当然とする企業の姿勢には、命への感謝の心はまるで見当たらない。命を「モノ・消耗品」として扱う商業主義によって、命への感謝の心が日本から消えつつある。
 「いただきます」は、単なる言葉ではなく、生きるために命をいただくことに感謝する、日本古来の食文化の象徴である。それが消えることは、日本人が自らのアイデンティティを失うことなのだ。小学校から英語の勉強をさせ、塾へ行かせるくらいなら、こうした日本人としての心を取り戻させることの方が、教育として大事ではないだろうか。

参考:くら寿司HP、きょういくブログ