うつし世を神去りましし大君のみあとしたひてわれはゆくなり  −乃木希典

 

 

乃木希典:長府藩士。陸軍大将。嘉永二年(1849)11月11日生。

祖国愛と忠孝の道義に徹した至誠の人物。
幕末の争乱の最中、15歳で集童場へ入る。のち松陰の叔父にあたる玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の明倫館に入学。
慶応二年(1866)4月萩より長府に帰り軍務に就く。6月に豊前国へ参戦。
明治二年に伏見親兵兵営に入る。ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩みはじめる。
 明治四年、23歳で陸軍少佐に任官。明治10年29歳の時に第十四連隊長心得として西南の役に出陣する。
 明治25年、44歳で退役して栃木県那須で農耕生活に入ったが、同27年に日清戦争が始まると第一旅団長として参戦、また同37年に日露戦争が始まると第三軍司令官として旅順要塞の攻略戦を指揮した。旅順攻略は激戦であり、この戦いで彼は二人の息子を失う(下はその時息子に残した詩)
「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」
 旅順戦後、敗将ステッセルを「水師営の会見」で武士道精神をもって遇したことは有名な話。
 その後、明治40年に明治天皇の要請で学習院院長に就任、
彼の実直な人間性が教育の面に強く浮き彫りされた。
大正元年9月13日明治天皇崩御に殉じ、東京赤坂私邸で自刃した。64歳。

同じ長州出身の児玉源太郎とは親友の仲であることは周知の事実である。詩人としても非凡な才能を持ち、書にも巧みであった。
死後、文武両道の神として、大正9年1月30日乃木神社(長府宮の内町)が創建される。