平成23年8月16日
今年も8月15日、日本の敗戦の日がやってきた。世間では「終戦記念日」と呼ばれているが、私はこの言い方は好きではない。この日は日本が多くの空襲と二度の核攻撃を受けて、ポツダム宣言を受け入れた、まぎれもない敗戦の日である。
日本はこのような、都合の悪い言葉を言い換えて誤魔化すことが多い。たとえば戦時中は軍隊の全滅を「玉砕」、戦後は占領軍を「進駐軍」と言い換えて、国民の不安感を抑えようとした。終戦記念日の例も、敗戦を「終戦」と表現を和らげることで、国民のマイナス感情を抑える目的があったのかもしれない。
しかし、こうした言い換えは問題の本質を見誤らせることもあり、非常に危険である。例えば原発がそうだ。日本はアメリカ原発の危険管理システムを輸入する際、「危険」管理を「安全」管理と言い換え、また、「危険」を連想できる表現を別の言葉に置き換えた。原子力が安全であるというイメージを国民に植え付け、原発を推進させるのが目的だった。しかし、このイメージ戦略が上手く行き過ぎ、発信者である政府や電力会社も「原発は安全」と思い込んでしまい、結果原発の管理は杜撰になり、東日本大震災でメルトダウンの大惨事を招くことになってしまった。
「終戦記念日」についても同じことがいえるのではないか。本来なら敗戦の原因を徹底的に分析し、責任者を処分し、次の戦争には決して負けない備えをするべきであったのに、日本人はそれをせず「終戦」と言い換えて敗戦の事実から目を逸らし、責任問題はなあなあで済まし、戦争や軍事にかかわる話はタブー化し(昔よりはタブーは薄れてきたが…)、戦争の事実自体を風化させようとした。今年の番組表を見ても敗戦の原因について追及しているのはNHKくらいで、他局はバラエティ番組ばかりだったのがその象徴だ。これでは、同じ状況に陥ったとき、また同じ失敗を繰り返すだけだろう。
今年で敗戦から66年になる。いつまでも「臭いものに蓋」ではなく、敗戦の事実と向き合い、未来へ生かすべきではないだろうか。
文筆:沖田東一