平成17年5月3日
日時:平成16年8月7日(土)・8日(日)
場所:石川護国神社
大阪駅を出発
靖国暦に載っている石川護国神社の≪聖戦祭≫は毎年、八月四日となっているが、若い方々の参列を促すために今年の夏からは、四日に最も近い土曜・日曜日、即ち今年は八月七〜八日の開催に決まったという。従って前夜祭は八月七日だ。
八月七日の正午前に、大阪駅第十二番北陸線ホームのサンダーバード二十一号自由席禁煙車乗車位置で、≪神州正気の会≫仲間たちを待つ。渡邊三峰(T10)会長・池田明義副会長(T12)の他、前川政則(T12)・前田チヅ子(T13)・北口幸一(S2)・井上俊一(S12)並びに私・亀谷 治(T13)の同会監事、総勢七名だ。
別働隊として高松市の老舗≪魚徳本店≫の福島祐子三代目社長(S23)・社長の姉 須美サン(S21)・社長の娘 加織サン(S49)の三名は、マイカーで金沢までドライブするという。
大阪駅始発の列車にしたので、我々は七名全員が固まって座ることが出来た。池田副会長と北口幹事は昨年私に同行したので二回目だが、他の四名は今年初めての≪聖戦祭≫参加である。
十二時四十二分大阪駅プラットホームを発車して、琵琶湖の西を走っているとき、金沢の料理旅館『きよ川』で合流することになっている福島祐子サンの携帯へ電話すると、早くも金沢市内に入っているという。
番狂わせの前夜祭
我々は十五時十八分、金沢駅に着き、二台のタクシーに分乗して犀川河畔の料理旅館『きよ川』に到着したとき、玄関で最前に着いたという福島祐子サンたち三女性に賑やかに出迎えられて、三ヶ月余振りの再会を喜び合った。
夫々の部屋に入った後、直ぐに一階受付横の浴室で、夏真っ盛りの道中の汗を流した。部屋に戻ると、私の部屋に福島サンら三女性が来られ、彼女らと面識のある渡邊会長・池田副会長と六人で、いろいろ雑談に花を咲かせるうち、気付くともう六時五十分だ。
昨年は少し遅れて宴会場に入ったために殆どの方々が既に揃って居られたので、今年は少し早めに会場へ入ると、未だ一人しか来て居なかった。夫々のお膳には、座席指名の姓名札も未だ置かれていなかった。仕方なく正面右側の壁側末席から我々十名が座った。
部屋全体を見渡すと、今年のお膳配置は昨年の場合と違って、中央の二列のお膳が並んで居ないし、一昨年までの下座壁側にもお膳が置かれていないので、お膳の数は全部で四十余席、例年に比べて少し侘しい感じである。
暫くすると係りの人が入って来て、壁側末席は、世話係の席だと言って、既に座っていた三女性を向かい側の窓側へ誘った。座席ごとのお膳の上に置く姓名札を持って来る予定だった宴席主催の中田清康≪聖戦祭≫実行委員長は、交通渋滞に巻き込まれて到着が大幅に遅れるという。
そのうち他の出席者も次々と入って来られて、各個に夫々然るべきお膳の前に座った。然し、主賓席には未だA級殉国烈士故板垣征四郎閣下のご子息で陸士五十八期の元参議院議員板垣正≪聖戦祭≫会長お一人だけだ。名越二荒之助高千穂商大元教授は東京始発の新幹線に乗り遅れて次の列車で来られるという。また≪戦争論≫の小林よしのり大東亜青年塾名誉会長は明日の≪聖戦祭≫には出席されるが、前夜祭には出席しないという。
待つほどに、例年は入り口近くに座る那須の栗林白岳戦争博物館々長が入って来られたが「床の間」前の上座の一列しか空席が無かったので、其の左端窓側近くに坐を占めた。次いで沖縄の憂国の大長老大正五年生まれで今年米寿の吉武進サンが、「此処が満員だったために、他所へ泊まることになって遅くなった」と挨拶しながら入って来られたが、上座を避けてご自身で、側方の壁を背にした位置へお膳を移して、其処へ座った。斯うして座席指定の名札は置かれていなかったが、全国から来られた著名な憂国の方々が、夫々みな然るべき膳席に着いて何うにか格好が付いた様である。
然し六月中に「今年は残念ながら欠席します」とお手紙を頂いた埼玉の≪正しい日本歴史を学ぶ會≫会長渡井昇サンと二宮報徳会理事須崎良夫サンのお二人を始めとして、静岡市清水の憂国の大先輩平岡辰夫サン、元朝霞市長の岡野義一サン、昨年靖国神社代表として玉串を奉納した陸士五十八期多治見國正サン、埼玉の二宮尊徳会理事森哲也サン、東京都国分寺市の日本教師会監事藤田豊サンらのお姿が見えないことは、全く以って淋しい限りだ。
此のあと中田実行委員長が来られて、上座の窓側端の空席に着いたあと、中田委員長の力強い開会の言葉で以て漸く、前夜祭は開会した。
開会後暫く経った頃、新幹線に乗り遅れた名越二荒之助先生が入って来られたのを見て、並み居る一同は先生を拍手でお迎えして、宴席は一挙に盛り上がるところとなった。
其の後は例年と同じ様に各坐入り乱れての交歓の場となったので、私は板垣先生の席へ行ってご挨拶したあと、隣席名越先生の席へ移って、先生と雑談を交わすうちに、私が、
『今年は昨年に比べて東京から来られた方々が少ないですね。二宮報徳会々長の小林サン・・・』
とまで言ったところ、すかさず先生が、
『来てるヨ、あそこに! 』
と指し示された。遅れて来られても、素早く全席の顔ぶれを目で確認して居られることに、私は自分の迂闊さに、我ながら呆れ果てたわけだ。
私は其のあと、二宮報徳会小林幸子会長、森幸雄事務局長の席へ挨拶に行って、小林会長を渡邊三峰会長に紹介した。三峰会長は初出席のために、今までは書簡と印刷物の往復だけで面識が全く無かった吉武進サン、小林幸子サンや、初対面の≪紀元乃会≫会長の東京都大田区の森茂(T6)サンたちとの交歓を大いに喜んで居られる様子が窺われたので、私も漸く「ホッ」としたのであった。
そして宴席も酣を過ぎて納会時刻となった午後九時、硫黄島軍司令官栗林中尉の甥御である那須戦争博物館栗林白岳館長による手締めで、今日の≪前夜祭≫を滞り無く終了した。
然し閉会後も名越先生は、福島祐子サンたち三女性とは、四月二十九日に大阪で初対面後に北朝鮮へ同行されるなど昵懇の間柄となって居られたらしく、三女性との再会を殊のほか喜ばれて、窓側末席の三女性の席近くに腰を下ろし、私たち≪神州正気の会≫幹部も交えて暫く、楽しい時間を過ごした。
犀川河畔の朝
我々≪神州正気の会≫一行に福島サンら三女性を交えた十名は前夜、宴席が終了した後も、渡邊会長の部屋に集まって夜遅くまで喋り合った後、夫々の部屋へ引き取る前に、明朝六時から室生犀星の歌碑まで散歩することを決めた。
翌朝六時、四階廊下で高松市の三女性をはじめ、夫々の部屋から出てきた其のとき揃ったメンバー七人で、一階に下りて旅館を出た。旅館前の犀川河畔の道路を皆でお喋りしながら三々五々歩いて居るとき、後ろから誰か下駄で駆けて来る音が聞こえた。振り返ると北口・井上の二幹事が、浴衣の裾を蹴散らしながら「フゥ フゥ 」息を切らせながら走って来て、我々のグループに合流した。流石に昭和生まれは、元気が違うと思った。
前田チヅ子サン一人だけが昨夜、九州の老女性と意気投合したらしく、彼女の部屋へ泊まったので出て来なかった。
私たち一同は早朝の気持ちの良い犀川沿いを歩いて、道路脇の崖の斜面や民家の陰の彼方此方に、ヒッソリと建っている目に付いた幾つもの句碑や歌詩碑の読み難い草書文字を音読しながら『八十を越えた齢の功というよりも、教養だネ!』などと喋り合って、皆が思うまま口々に判読しては正否を問い合って、最後は、流石に最長老である三峰会長の音読を以て正解と結論しながら、歌詩句碑を探り歩いた楽しく思い出深い犀川河畔の早朝散策であった。
(つづく)
文筆:亀井治