平成17年5月3日
(続き)
石川護国神社で
朝の散歩から『きよ川』へ帰って、七時からの朝食を摂っているとき、「石川護国神社」までの送迎ハイヤーは、例年より少し遅れて九時半頃からになるという説明があった。≪聖戦祭≫会場入りが余り遅くなると、砺波ロイヤルホテル宿泊組のほか、地元や日帰りの参列者が次々と集まってくると思われるので、良い位置を確保するために私と池田副会長が、福島祐子サンらの車で先行することにした。
≪聖戦祭≫の大碑正面一般席の最前列右端に、会場受付で手渡された弁当・お茶や我々の荷物一式を置いて十人分余りの席を確保したあと、私たち先着の五人は、先ず護国神社拝殿へ参拝した。終わって席へ戻った頃、次々と≪きよ川≫宿泊仲間が到着するところだ。我々のグループ全員が揃ったところで、仲間たちと一緒に大碑正面や側面に彫り込まれている文字を見て回った。
大碑側面に仲間数人が並んで≪日本をまもる会≫写真班員から写真を撮って貰っているとき、丁度、目の前正面に、其のとき私が襟に付けていた「日本傷痍軍人会」バッヂと同じ意匠の紋様がついている二.五bほどの高さの顕彰碑に気付いた。近付いて確かめると、石川傷痍軍人会による≪顕彰碑≫で、意匠中央の菊の御紋のところが神武天皇の上半身像になっていたので記念にカメラに収めると、写真班の人も同じように撮っていた。斯の様に毎年≪聖戦祭≫に参列する度びに、何かと想い出になる新しい発見があることも、嬉しい限りである。
其のあと、敗戦直後の昭和二十二年九月二十五日に、占領軍の新日本憲法の発布に抗議して楚の名臣屈原に倣って熱海の錦ヶ浦に入水自決された金沢出身の元枢密院議長法学博士≪清水澄博士顕彰之碑≫とか、私たち≪神州正気の会≫が数年前に献木した桜木の前、或いは≪シベリア抑留者慰留の碑≫などを、写真を撮りながら見て回った。
座席に戻ると、砺波ロイヤルホテル宿泊の≪シベリアを語る會≫船崎政男・五師正一両幹事も、何時の間にか、我々より少し後方に到着して居られた。更に其の少し右の方に、二宮報徳会の森哲也理事が居られたので『前夜祭は、欠席でしたネ! 』とご挨拶すると、『きよ川』が満員だったので金沢駅近くの旅館へ宿泊したために、行けなかったという。『娘サンは? 』と訊くと、今年は奥様とお嫁サンの介添で来られたという。
フト、側方に「宇山会」大阪の「経営センター」社長濱野晃吉サンの姿が見えたので近付いてご挨拶すると、ご夫人はいま故草地先生の奥様をご案内して、招待者席の方へ行かれたという。
其方へ急ぐ途中、戻って来られる濱野夫人にご挨拶したあと、草地夫人のところで暫くの間いろいろと、ご挨拶など立ち話をした。此のとき招待者席最前列に、茲三年ほどは出席されなかった独協大教授で昭和史研究所代表の中村粲先生の姿が見えたので、ご挨拶に伺った。
濱野ご夫妻のところへ戻ったあと、「宇山会」事務局長丸亀市の春木旭サンに引き合わせて頂いた。
一旦、自席に戻ったところ、其処へ名越先生に続いて板垣先生も来られて、私たち≪神州正気の会≫幹部や福島サンら三女性たちと、いろいろ立ち話をした。其の合間に、先生方は我々と一緒にカメラに収まって下さった。
また、昭和十九年一月、満州国国境警備から南方第一戦に向かう途中、米潜水艦に撃沈された輸送船「デンマーク丸」生き残りの元関東軍金森一雄サンが招待者席最前列に見えたので挨拶に行くと、いろいろと南京陥落当時の平和な南京城周辺の写真を何枚も下さった。
此のとき、≪シベリアを語る會≫の会誌『朔風』第八十八(H16.6.25)号誌上に、私が提供した金森サンの「追憶デンマーク丸の殉難」手記が載せられ、七月頃に同誌編集委員の森島重幸サンから、「金森サンは現存して居られるお方? 」かと、問い合わせの電話があったことを思い出したので船崎サンを連れて行き、右の旨を金森サンに説明した上で、ご両人を引き合わせた。
もう此の頃には≪大東亜聖戦大碑≫前の大テントには、七〜八百名の方々が参集して居た。
第四回≪聖戦祭≫午前の部
午前十時丁度、突然、元気いっぱいの陸軍式号令が聞こえたあと、明治時代の陸軍大将服を纏った栗林白岳戦争博物館々長を先頭にした軍装隊が、海軍旗を奉掲して軍靴の響きも勇ましく歩調を取って入場して来た。いよいよ≪聖戦祭≫第一部「神事」の始まりだ。気付くと招待者席最前列に、昨夜の≪前夜祭≫には欠席された小林よしのり先生と、昨年も一緒だった秘書の岸端みなサンの姿が見えた。
着席して会場を埋めた参加者約一千人全員の前を、粛々と斎主以下祭員が入場着座して、開会の辞が読み上げられたあと、全員が起立して、国歌「君が代」の斉唱だ。
次いで英霊と物故者へ「感謝の黙祷」、「修祓の儀」、「降神の儀」、「献饌の儀」、「斎主の祝詞奉上」、「祝電披露」、「斎主の玉串奉納」と続いたあと、「板垣正聖戦祭団体代表」と、氏名を呼ばれるずつ約五十余人が順番に、祭壇へ出て行っての「玉串奉納」だ。
私は兵庫県代表、私の次が大阪府代表の濱野晃吉サンだった。渡邊三峰会長は≪神州正気の会≫代表、池田副会長は昭和十八年秋、神宮外苑で雨の中を行進した「出陣学徒」代表として呼ばれた。
此のあと、≪シベリアを語る会≫代表として、大碑建立式典以来毎年来て居られた内藤清春副会長も昨夏出席の山本敏一理事長も今年は欠席のために、船崎政男サンが呼ばれて「玉串奉納」を行った。
此の後、「徹饌の儀」、「昇神の儀」、「斎主以下全祭員の退出」となったあとに、参加者全員による「≪大東亜聖戦の歌≫合唱」、「神事屁意識の辞」を以て、「神事」の全てが終わった。
次いで、全会場を圧する力強い声の中田清康実行委員長による「挨拶」に続く「過去一年間に於ける経緯報告」と、同じく大音声を以て鳴る板垣正「≪聖戦祭≫会長挨拶」。此のあと、馳浩代議士の「来賓挨拶」、「閉会の辞」を以て午前の第一部全てを終わったとき、丁度、十一時半であった。
終わって直ぐ白嶺会館へ行き、同伴仲間たち十人でユックリ昼食を摂ったあと、十二時半過ぎに三峰会長と私が福島祐子サンの車で先行し、残り五人は主催者差し回しバスで、午後の部が施行される金沢市文化ホールへ向かった。
≪聖戦祭≫午後の部
市文化ホールへ先行した私たちは、最前列と第二列目中央に座を占めて仲間を待った。≪聖戦祭≫午後の部開会は、午後一時である。
先ず会場を埋める約五百余人が起立して、国歌「君が代」の斉唱だ。終わって板垣正会長の八十歳とは思えない元気いっぱいの力強い声による「≪聖戦祭≫会長挨拶」に続いて、岡田直樹代議士による挨拶があった。其のあと、いよいよ若い人たちから拍手を以て「大歓迎」される≪戦争論≫・≪わしズム≫の小林よしのり先生の講演である。
睡眠時間が足らないほど多忙であるという話から導入して行くうち、いつの間にか話の核心に持って行く巧みな話術で、満員の聴衆を魅了し尽くして記念の講演を終わった。
其のあとが名越二荒之助先生による「総括講演」で、今から丁度百年前の日露戦争で世界の超軍事大国ロシアを破った日本の勝利が、当時世界各地の有色人種青年たちを奮起せしめたことが起因となって、大東亜戦争後に続々と有色人種の独立国が誕生せしめたのであると断言して、今日の講演を力強く締め括られた。
講演が終わった後は、幼少年の男女が中心となって演奏する和太鼓グループ「龍青」による、勇壮活発な和太鼓演奏だ。
太鼓演奏を終わって十分間の休憩の後、「高千穂コーラス会」による想い出の日本の歌の数々、「君が代」・「愛国の花」・「荒城の月」・「故郷」・「水師営の会見」・「大東亜聖戦の歌」・「異国の丘」・「蘇州夜曲」が歌われた。
「異国の丘」が歌われた後の寸劇に於いて、那須の戦争博物館栗林館長ほか数人の日本兵が出て来る約六十年前のシベリア抑留劇のあと、自分(栗林志願兵S3)は日本敗戦後に、国際法を無視した共産党独裁国家ソ連邦によってシベリアへ拉致抑留されて苦難の厳しい体験をしたが、同様に板垣正会長(T13・陸士五十八期)・名越二荒之助高千穂商大元教授(T12)・中田清康実行委員長(T12)・≪聖戦大碑≫建設に力を致された故元関東軍参謀作戦班長陸軍大佐草地貞吾建立委員長(M37生・H13没・享年九十八歳)の方々もみな、シベリア抑留体験者であるだけに、いま他国の属国にされようとしている平成日本の現状を見ては、死ぬに死ねない気持ちであります。我々は全員(栗林館長は七十六歳)みな、齢は八十歳を越えた今でもなお老骨に鞭打って、日本民族の覚醒と蘇生に向かって日夜頑張って居るのだと、厳しい口調で付け加えられた。
私、亀谷 治(T13)も今年満八十歳になったが、他民族の奴隷として働かされた挙げ句、半死半生の身で辛うじて生還した悲惨なシベリヤ抑留生還者の一人として、共産党コミンテルンの策謀に引っ掛かり日本民族が衰亡に向かって一直線に墜ちて行きつつある平成日本の現状を眼前にしては、『日本民族の蘇生と、日本国の完全独立』という大きな目標に向かって其の暁光が見えるまでは死など縁無きものと信じて、敢くまで頑張って行くのが、大東亜戦争でまたシベリアで亡くなった戦友に対する義務であり、また最大の鎮魂供養であると、此の寸劇を見ているとき、心の中で更なる邁進を誓ったのである。 合掌。
此のとき私の側方の席から福島祐子サンが、先刻歌われた「異国の丘」がシベリア抑留の歌であることを初めて知りましたと、感極まった声を掛けてきた。日本敗戦から数年後の生まれで、名越先生を始め、矢崎好夫サン・平岡辰夫サンたち高名な憂国の先生方に親しく師事して、憂うべき日本の現状に関して茲数年のうちに目醒められた上、積極的行動力を持った福島祐子サンでさえ、近世日本の正しい歴史に疎い部分もあることを、私は此のとき改めて強く認識させられたのである。
思い返せば、福島祐子サンへは今までにいろいろと資料を差し上げたが、それでもなお後に続く若い憂国の方々に対する私の啓蒙努力は、幾ら為しても為し過ぎることはないということを、身に浸みて痛感させられたのである。
此のあと私たち≪神州正気の会≫仲間たち一同は、大阪駅帰着の時刻を考慮してキングレコード浅田あきら・御供田幸子の公演を前に、残念ながら心を遺して席を立ち、旅館『きよ川』へあと一泊して小林よしのり先生から話を聞きたいという福島サンら三女性に別れを告げて、座席の間を歩いてゆく途中に、舞台前の最前列座席端に坐って居られた名越二荒之助先生と、中田清康実行委員長のご両人と、来年の八月≪聖戦祭≫に復の再会を約して固い握手を交したあと、金沢市文化ホールを後にしたのであった。
文筆:亀井治