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コラム1:シロナガスクジラが増えない理由

 シロナガス鯨は絶滅の恐れがある生き物である。
 シロナガス鯨は35億年の地球の生物史上に出現した動物の中で最大の動物であり、体長は25m、体重は150tと、まさに海の王者と呼ぶにふさわしい生き物だが、捕鯨砲による近代捕鯨の始まりとともに、乱獲によって頭数を減らされ(特にシロナガスクジラは鯨油生産効率が良かったので狙われやすかった)、昭和40(1965)年にIWCがシロナガス捕獲が禁止された頃には数千頭と、既に絶滅寸前にまで激減していた。
 その後、失われた頭数を回復すべく、様々な調査が行われているが、40年たった今も頭数増加の傾向がみられず、IWCが平成元(1989)年に発表した生息数調査結果でも、ミンク鯨など小型の鯨が増加し、シロナガスは減ったままである。

 シロナガスが増えない理由は(個体数の少なさや繁殖力の弱さも一因であるが)、上に挙げたミンク鯨等、小型の海棲生物の増加であると言われている。ミンク鯨はかつては7万頭前後であったがシロナガス鯨、ナガス鯨が減り始めた1940年代より数が増えはじめ、現在は南氷洋だけで76万頭(平成2年調査)、全世界では90万頭とも200万頭以上とも言われ、今もその数は増え続けている。
 日本鯨類研究所によれば、南氷洋においてのミンク鯨とシロナガス鯨の競合において、シロナガス鯨の頭数は、捕鯨開始から現在で、その数を0.5%にまで減らしたのに対し、ミンク鯨は逆に9.5倍に増加している。
 比較すると「ミンク59万トン:シロナガス1500万トン」⇒「ミンク560万トン:シロナガス7万トン」となっており、完全な逆転現象である。 シロナガス鯨の餌と増え続けるミンク鯨の餌は同じである。当然棲息区域も競合している。大量に増えたミンク鯨によりシロナガス鯨が頭数拡大の場を奪われ、数が増えずにいるのである。

 頭数が10倍にも増えたミンク鯨は、もはや間引かなければ生態系に影響が出る状態であり、既にミンク鯨の餌である鰯などの魚が減少するなど、漁業にも色々と悪影響が出ている。
 ミンク鯨とシロナガス鯨とのバランスについては、捕鯨による頭数調整を行えば、充分に解決する問題である。こうした「間引き」を商業捕鯨推進の理由にするつもりはないが(する必要もないだろう)、人間の手で回復可能な生態系バランスは極力回復させるべきだと私は思う。
 シロナガス鯨は絶滅の恐れがある生き物である。シロナガス鯨を助ける為に、ミンク鯨の頭数管理を含めた捕鯨を認めるべきではないだろうか。

(追筆)
 ミンク鯨の間引きによってシロナガスの頭数が回復したしても、まだ終わりではない。
 既に頭数が数千頭に減っているシロナガス鯨には、遺伝子の多様性が失われているからだ。種内に遺伝的な多様性が保てないと、病原菌や環境の激変に全ての個体が一様に反応してしまう為、もしその変化に対応できなかった場合、一挙に絶滅する危険性がある。一度減少した種はたとえその後、個体数が少々増えても、遺伝的な多様性はなかなか回復しない。シロナガス鯨には絶滅の危険が長期間つきまとうことになる。
 これらのことを考えれば、我々がシロナガス鯨を救うためには、種が遺伝的な多様性を取り戻す方策を考え、それが実現するまでは長期的に管理していく必要がある。

 


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コラム2:フォアグラに見る矛盾

 現在、日本が調査捕鯨を続けていることについて、欧米を中心とした世界各国が日本を非難している。
非難の理由を挙げると、その多くが「可哀想」という感情論で「日本の食文化は残酷だ」と攻撃しているようだ。
 だが、はたして非難している彼らの国の食文化が我々と比べ残酷でないのかというと、これが首を傾げざるを得ない。

 例えば、フランス ― 捕鯨反対国の1国である ― の食文化を代表するものとして「フォアグラ」を挙げる。
 ご存知の方も多いと思うが、フォアグラとはガチョウを雛の頃から大量の餌を無理矢理食べさせて病的なまでに太らせることで、肥大化した肝臓(いわゆる脂肪肝)を食べるものである。考えてみれば、これ程残酷な話もない。
 他にも西洋では鳩やウサギなども調理してしまう。日本人の感覚では、こちらの方が「可哀想だ」と思えてしまうが、不思議な事にクジラ食にはヒステリックな彼らが、自国の食文化には何とも感じていない。

 こうした矛盾は、欧米人の文化的狭量さ ― 世界が自国と同じ文化で成り立っている、または同じ文化を持たない国は認めない ― という一種の偏見に原因があると思われる。
 欧米はキリスト教の文化圏だが、例えばキリスト教では「牛」「ウサギ」などは神が家畜として人間に与えたものとし、これを食べることは人間の権利だ、としている。また、欧州の(日本と比較して)厳しい自然環境も重なり、欧州では人間が食べるものは小麦でも肉でも人間が作るべきで、それをせず自然の物を食べるのは野蛮であるというのが考えにある。
 これを捕鯨に当てはめると、肉は牧畜によって育てるべきであり、自然を泳ぐ鯨を狩るのは、アフリカでキリンや象を射殺するのと同様、野蛮かつ残酷な行為ということになる。 つまり、欧米人の目には自分達の牧畜と日本の捕鯨は、全く異なる次元のものに見えていることになる。 

 無論これは彼らキリスト文化圏にのみ通じる理屈であり、それ以外の文化圏の人にはただの屁理屈でしかないであろう。実際、イスラム文化圏は牛を神の使いとしており、食用など言語道断である。また、江戸時代の獣食文化の無かった日本も、牛等の獣を食べることを「野蛮」としていた。
 しかし、上記のことで欧米人に牛肉食批判をしても、彼らは一笑に付すであろう。「文化が違う。我々の文化ではこれが普通だ」と。ここに彼らの傲慢さがあるが、彼らは気付こうともしない。

 


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コラム3:海外の捕鯨事情

 

 


 

コラム4:クジラの唄

 

 


 

コラム5:絶滅危惧種を食べても怒られないエスキモー

 

 

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